脚がつった。

 

このところ卒論が進み始めて、精神的にも少しよくなってきた。

 

今日は精神科医の先生に診てもらう予定だったんだけど、ゆっくり朝ごはんを食べていたら、遅刻する時間になっていた。

精神科医の先生に会うのは始めてなんだけど、久々に行く場所だから時間の感覚を掴めていなかった。

 

自分に絶望して、焦って電話入れて、走って走って、そういや久々に走ったな。

でも後ろの人いないから大丈夫ですよと言われたことを思い出したら、走るのをやめていた。

そもそも、精神科医の先生に会いにいくのに、こうして自分を追い詰めているのもおかしな話だ。

 

そうして自分をゆるして、駅に向かいながら歩いた。

でも、約束の時間に間に合わないみたいな、社会の中で当たり前に出来なければならないことすら出来ない自分を、それでもいいからって少しでも肯定してしまう自分を冷静に見つめて、また絶望したりした。

 

自分勝手なことを言えば、こうして約束の場所向かっているのは、社会に抑圧された自分で、本当の自分ではないなって考えてしまう。

いや、きっと思われるより深い意味はなくて、あと30分、約束の時間が遅ければ、それでよかったのだ。

まだ家を出る気持ちになってないのに、そうしなければならない上に遅刻するというこの状況に、何もかもが嫌になってしまうようなそんな気持ちに襲われたんだ。

 

でも今まで、ほとんどはそうしてきたんだと思うと、正気だったのかと自分を疑いたくなる。

小学校も中学校も高校も、行くかーって気持ちの日が半分くらいで、後の半分は行きたくないけど行っていた日(深い意味はない。眠いのに…とか)だったような気がする。

それに耐えられていたから、ここまでほとんど登校出来てきたし、卒業も出来たけど、それに見合う何かを手に出来ているのかは、わからない。

 

いや、手にしているのだろうな。

私は社会に出たことがないからわからないんだ。

不安がすごい。

 

やらなければならないことが大量にあると、あぁあれも、あぁこれもって考えているうちに「私には無理だ…」と諦めてしまいそうになる。

千里の道も一歩からってもう使い古された言葉だけど、そうだよなって思う。

私は目標が遠すぎると、無になってしまう癖がある。

 

前にこのブログを書いた時から、状況は幾らか進展した。

全く進んでいなかったのだから、少しであれ進んだのだからこれはすごいことだ。

自分で自分を褒めるべきだ。

 

でも私はその前に、また先を見て絶望してしまう。

特に人の力を借りる必要があることとなると、進むのにかなり躊躇してしまう。

まずはありのままでぶつかればいいのに、その前に酷く思い悩んでしまう。

 

先週から今週色んなことがあった。

今までの人生で死にたいと思ったことは忘れてしまったことまで含めて数え切れないけど、丁度1週間前が今までの人生で一番死にたかった。

どうやって死ぬか、死んだらどうなるかをあれだけ具体的に考えたのは初めてだった。

 

あと数日前本当に楽しいことがあった。

人と遊んで楽しいことってあまりないのだけど、数日前のあれは本当に楽しかった。

これまでの人生で一番楽しかった。

 

楽しさ感情の振れ幅が人より小さい私だから、楽しかったと強く思えること自体がとても嬉しい。

私にだって楽しいという感情があったんだって感じた。

あの人たちのためにも私はこれを乗り越えたい。

 

乗り越えることが出来るかな…。

一歩ずつ進んでいくしかないんだよな…。

 

物事が前に進み始めて、少し気が楽になったけど、油断できないというか、まだすごく不安定だ。

小さな小舟に乗っているように私の精神状態は揺れに揺れて…。

やっぱり不安だ。

 

不安がすごいだなんて、酷く抽象的な言葉でしか言い表せないけど、でもやっぱりそういう状態なんだ。

逃げ出せるなら逃げ出したい。

でもそれをしたら余計辛いから…。

 

 

土砂降りの雨の中。

 

日々の中で死が最も私に近づく瞬間はきっと待っていた電車がホームに滑り込んでくる、あの瞬間だろう。

一歩踏み出せば全てがなくって…ふわっと風が身体に当たったかと思うと、喧騒と一緒に現実が帰ってくる。

ドアの前を開けて立つと、何事もなかったかのように私はまた未来へ運ばれていく。

 

人身事故が起こると、皆一様に舌打ちして死者を呪う。

いや私だってその一部だ。

死ぬなら迷惑掛けないでくれよ、他人事なのだ。

 

確かに困るけど、最近は人身事故で亡くなる人を責められない様な、そんな気もしている。

私が困ることとは別に、その人にはその人の自由がある。

死ぬときまで他人のことなんか考えてくれなくていいよ。

好きにしたらいい。

 

私には死ぬ勇気がないので、きっとあのふわっとした風がやってくる前に、踏み出すことは出来ない。

ここに拳銃があれば今すぐ引き金を引くのに、と思ったのは一度や二度ではないけど。

そこになんの差があるのかはわからない。

 

孤独に死にたいのかもしれない。

 

それでも生きるかい。

 

大抵のことはどうでもいい。

 

大学の就職支援センターみたいなとこに行った。

四年生のこの時期まで何も決まっていないのだから大したものだ。

何より私の自己肯定感は死んでしまったので、「就職したい!」みたいな覇気が私には一切ない。

自信のない商品を売り込むのに躊躇するように、私は私をどこにも売り込む気になれない。

 

支援センターで私の相談を受けてくれた男の人はとてもいい人で、私が一言も発さない間ずっと企業の見つけ方を教えてくれた。

志望している業界すらないみたいな、なんかもうどうしようもない私を

「こだわりがあると難しかったりもしますからね」

なんて言って励まして、ネガティブなことはほとんど言わなかった。

 

彼に従ってそのあと某就活サイトを延々と眺めていて、私が見たってわかる頭のおかしい求人も沢山あるんだなと思った。

就職なんかしたくないけど、他にすべきこともないから。

 

私は東京圏に住んでいるのだけど、地方で割合興味のある求人を見つけて、今までの人生でつくりあげた人間関係をほとんど疎遠にすることになろうその選択肢について吟味していた。

つくりあげたとは言うけど、実際は生に付随して結果的に出来たものでしかなくて、それが私にとって果たして重要かと言うことを考えていた。

 

私に親友と言える友人はいないし、自分から連絡を取って会うような人もいない。

でも私に連絡をしてくれる人はいるし、新しく人間関係を構築することほど精神や体力を消耗することもない。

連絡をくれる人にはすごく感謝しているし、本当にありがたいことだと感じている。

とか、そんなことを考えていたらどうすべきなのかわからなくなってしまった。

 

最近、目上の方からあなたは思慮深いねって評価をいただいたのだけど、考えすぎで動けなくなるのは私の悪い癖だなって、このところよく感じている。

他人から見てその評価基準が明確で、すぐに判断を下せるような人の方が出世するのだろう。

 

「大抵のことはどうでもいいなんて言いながら、色々と気にしているじゃないか」

いや昔に比べたら本当にどうでもよくなった方だし、こうやって考えてたら段々本当にどうでもよくなるんだよ。

 

私はこのところ生きる理由を死ぬのは親に申し訳ないからとか、そんな風に考えている。

私は彼らが私を生み育てた理由が全くわからないから、親に特別恩義を感じているわけではないのだけど。

なんでそれでも生きているのだろう。

 

 

地球が必要としていない。

 

すごく感じるのは数年前に死ぬべきだったのでは、ということ。

数年前に治療しなかったら死ぬ病気になったのだけど、進歩した医療の所為で生き延びてしまった。

あのとき、地球は私を必要としていないから病気になったのではないかとたまに思う。

 

私がこんな表現をするのは、東野圭吾の『パラドックス13』という小説を昔読んだからかもしれない。

詳しくは覚えていないのだけど、困難に巻き込まれた主人公が「地球がもう自分たちを必要としていないのではないか」みたいなことを言い出す。

いや、あの小説の主人公たちが巻き込まれた困難は、急に違う世界に送り込まれてそこで何度も死にそうになる、みたいな生死をかけたものだった気がするからスケールが違うといえば違うかもしれない。

 

ただ「地球が」とか「神が」とかそういう論法は、思い込みに違いないのになんだか急に説得力を持って迫ってくることがある。

あれから辛いことばっかりだ、とか、これからのこととか考え始めるとキリがない。

冷静になってみれば別にそれ以前だって生きるのは辛かったし、終わったことの辛さを軽視しているだけだ。

 

でもいつだって眼前に迫った辛さしか視認出来ないし、それが今の私にとっての全てであって、それ以上もそれ以下もない。

 

ごめんなさい。

 

甲斐性がない。

 

酷いタイトルである。

「甲斐性」に続く言葉は大抵「〜のない」か「〜なしの"男"」であるから、「〜が」と来た瞬間にあぁこいつは駄目だなという気分になる。

ただ「甲斐性のない私」ではどこか卑屈っぽいし「甲斐性なし」でも同じだ。

 

どこか諦めている様な雰囲気を持たせたくて「甲斐性がない」というタイトルを選んだ。

だから私は語感を好んでこのタイトルを選んだわけだけど、自分なら「こいつは駄目だな」となるタイトルを付けることを選ぶあたりに私の人間としての駄目さが凝縮されている。

まあどうでもいいんだそんなこと。

 

…いや…どうでもよくない…。

 

生きれば生きるほど、私は生きるのには向いていないのではないかという思いが強くなっていて消えたい。

前回、就職が迫っているようなことを伺わせる様な内容を書いたけどあれから1週間しか経っていないのに、私の中でそれが凄く遠のいた。


私は社会には必要とされていないのではないかと、そんなことを感じている。

結局私の中の問題であって、私が社会から突き放されたわけではない。

私が勝手に社会から遠のいただけだ。

 

ごめんなさい。

きちんと理由というかそう思った具体的な事象があって、それを説明したいのだけど、私の中にある匿名性の欲求がそれをさせてくれない。

これじゃあ何も伝わらない。

 

でも書けないやまだ。

記憶力が弱いのか、忘れてしまうので書き溜めておこうとは思うのでいつか話せるといいなと思う。

ごめんなさい。

 

 

はじめまして。

何が人生を決めるかは知らない。

知らないのだけど、私はまた一つの壁にぶつかっていて、この壁を乗り越えたら、次にぶつかる壁はもう今までの壁とは質の違うものになりそう、と何となく感じている。

 

簡単に言うと、私は今就職を控えていて、いや正確に言うと控えてはいないな。

世間的に就職すべき段階に来ていて、私の性格と現在の志望からして、私は一旦就職すれば転職をするとかそういうことはきっとないだろう。いやわからないけど。

 

だから私が今感じていること考えていることを、何らかの形で残しておきたいと思っている。

これは私の若さ故の過ちであって、感傷的な自己満足に満ちた記録でしかない。

だからそういうのが苦手な人にはこれ以上読むのを勧めない。

 

あと数年もしないうちに私は多分一つのレールの上に乗って、その上をただ進むことになる。

人生でこんな機会は多分もうないし、きっと忘れてしまうから、今の私に関することを書いておきたい。

 

これがどこまで有効かはわからないけど、ある種の匿名性を利用して、普段人前では言えないようなことも書いて残しておきたい。

それを自分だけが見られるメモ帳や手帳に記録するに留めておけないのは、私の弱さであってそれ以外の何でもない。

 

このブログの目的はあくまでも外ではなくて内にあって、私が私について考えるためのものである。

私にとってこのブログが有益なものとなりますように。

いや結果として誰かの役に立つとか孤独を癒すとか、そういうことになればそれはとても嬉しいことです。